鎮座地 佐世保市広田町九〇番地 (彼杵郡広田村宮崎) 祭 神 底筒男命 中筒男命 相殿座 嵯峨天皇 表筒男命 例大祭 九月=十七・十八・十九日
本神社の縁起は古く、「日本書記」の時代にさかのぼり、社伝によれば、第十二代景行天皇(一六五〇年前)が日向の熊襲親征のため、九州に行幸されたとき、西海の針尾島を通られ、速来瀬戸の航海安全のため、上原の地に住吉大神を配祀され、降って、ここ広田の地に遷座された。
その後、平安時代初期の弘仁十四年(西記八二三年)第五十二代嵯峨天皇自ら手になる木像を相殿に奉斉して、本神社の基礎ができた。
古くから、彼杵郡の宗廟とされ、大祭には郡内の浦々四十八ヶ村から御饌が奉納され、領主の参拝があった。当、速来地方が大村氏の支配から離れ、北方の平戸松浦氏の領地になると、この手厚い保護と崇敬をうけることになり、文録元年(一五九二)初代藩主松浦法印鎮信公は、文禄の役出征にあたり、その安全を祈願して、陣太鼓ほかの武具を奉納した。その後も第十代藩主観中照公は扁額を、第十一代藩主諦乗曜公は絵馬を奉納するなど、江戸時代を通じて、藩の別段崇敬社としての社格をもった。
この間、社名も住吉大明神から住吉宮に、さらに維新後の明治七年(一八七四)に住吉神社となり、同時に郷社に列されて現在にいたっている。
本神社の御祭神である。三柱の筒男命は、住吉三神とも称され、綿津見三神や、宗像三女神とともに三大海神とされ、航海安全・海上平安や、寿福慶賀・農耕豊作をかなえる海神として、西日本一帯で信仰されてきた。美しい自然と、海、山の幸にめぐまれる当地方でも古くから住吉信仰がさかんで、本神社は、その中心的な神社として、一千余年の歴史を歩んできた。
皇記二千六百四十九年 平成元年一月吉日