佐々加雲の墓

広田小学校の校門の前に立ち、左前方を見れば、雑木がこんもりと茂っている小高い丘が見える。広田ストアと大黒産業の間に見える木立である。そこにはかっての広田城の城主佐々清右衛門入道加雲の墓があり、墓石には加雲と刻まれている。天正十四年(一五八六)の争いの時、大村軍は松浦軍が守っていた折尾瀬井手平城を落し、その勢に乗じ広田城に攻め込んで来たが、広田城の松浦軍は平戸からの松浦降信·鎮信親子の海陸よりの応援を受け、逆に大村軍を撃破してしまった。敗退する大村軍を平戸領主の命を受けた城主佐々加雲ら広田城の武士は彼杵城まで追い攻めたが、そこで強い反撃に会い敗れ、逆に逃げのびる結果になった。 

敗色は濃く広田城に止まることも出来ず、海路平戸を目指したが、途中九十九島の金重島に避難し、深手を負っていた加雲は、そこで自害し果ててしまった。 

それまで城主加雲の傍らを離れず従いていた佐志方善芳、北川長助らは漁師に変装し広田城に帰る途中大村軍に捕われたが、幸い針尾島にいた平戸軍に助けられ、早岐瀬戸で激戦の末無事広田城に帰り着くことが出来た。その折、持ち帰っていた加雲の首をここ堂山に葬ったといわれている。 

 傍らには、友軍として戦った山口種右衛門外十余名も一緒に葬ったとしてあるが、自然石に刻んだ梵字と「加雲」の外、いくらかの字が見られるだけで、風化が甚だしく、墓石そのものも倒れ、深い落葉に埋もれていたりしてその名残も僅かなものになっている。 

 振り返り仰ぎ見れば、広田城の見える丘である。一説によれば、堂山は広田城にかかわりのある牢獄のあった所ともいわれているが、はっきりとしたことは分からない。 

 何分、四百年以上前の話である。又、近くの人の話では、葬られた武士にかかわりのある方であろうか、平戸から時折参拝に見えられるそうである。 

早岐郷土史概説抜粋 

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