大手原塩浜跡

大手原 (塩浜) 

崎岡町大手原(塩浜ともいう)此の塩田は寛政三年(一七九一年)平戸松浦藩の事業として創設された。山側は十八世紀初め宝永年間の新田、海側が十八世紀末、寛政年間に作られた塩田のあと、明治三十八年塩専売制度が実施され、民営に移管された。明治四十三年には政府専売法により廃止された。干拓の後、水田となっていたが、今はその水田も埋立てられ、一面の平地となり、会社の所有となっている。今は塩田であったと思わせるものはほとんどなく、海岸に残る井樋が往時を物語っているにすぎない。塩浜は、瀬戸内地方の入浜式製塩法で、平戸藩の事業として作られた。浜に水門を設け、砂浜全体に溝を堀り、一番浜から八番浜までに分けられ、一浜の広さが十八反、(一七八アール)、一浜に従事する浜子が十五人で当たっていた。一日の賃銭が男子、通宝一枚(七厘)、女子五厘だった。当時米一俵買うに男子二十一日、女子三十日もかかった。入浜式塩田で忙しいときは他からも人夫を入れていて、浜師(技術者)は主に三田尻(防府)、時津等から来ていた。満潮になると水門を閉め、浜子がヒシャクで塩水をまき、天日で乾かし、乾くと又まき何回も繰り返し、白くなったら砂を集めて水をかけ、濃い塩水を釜に入れて煮詰めて塩を取る。入浜式製塩は、赤穂で開発され、塩焚は一日三回、燃料は主に北松炭を用いた。一回に十二斤俵1500~2000俵を製造した。出来た塩俵は早岐港まで船で運び、塩問屋に卸した。廃藩後塩田は民営に移管されたが、平戸藩では一番ながく続いた塩田である。 

当時の塩務局は現在の早岐農協倉庫付近であったらしい。大手原中央四番浜あたりに古い塩釜神社がある。祠には福田平助金光施主、文化四年(一八〇七年)謹請塩釜神と記入され、塩釜氏神である。大正年間の末期までは夏祭に余興等を供えていたが、現今では定例日には塩浜講中で祭祀を営んでいるにすぎない。崎岡の漢学者、浜本宗済の祖父は山崎卯藤治であり、大手原塩製造の元祖と言われている。現在も地域の人は住家を浜の番号で呼んでいるのは塩浜の名残であろう。 

広田小学校創立百周年記念誌及早岐郷土史概説抜粋 

大手原井樋

藩政下では、早岐瀬戸沿岸や江上浦の干拓事業が推進され、広大な水田・塩田が造成された。ハウステンボスが建つ赤子新田もこの時に完成した。

塩釜神社

 生月島の積石工の活動が記録で確認できる最も古い例は、佐世保郷土研究所の『郷土研究』七号に松尾滋氏が紹介した、寛政七年(一七九五)に早岐の大手原に塩田を作る際の、六〇〇間(一〇八〇㍍)もの堤防の築造を、生月の忠助という者が請け負ったという佐々町吉永文書に残る記録があります。

https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.php/view/109

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