小森橋を渡り、重尾道に入り瑞光寺跡の前を通りすぎて、尚も進むと、広田町と重尾町を分ける金田川がある。その川に架かっている碧水橋より約100メートルぐらい手前の右側に、屋根は瓦葺き、壁は赤煉瓦の透かし入りで出来た、子泣き観音などと呼ばれている小さな御堂がある。
近くの方々は「なきびす様」「いがど様」と呼びお詣りしているが地蔵や観音らしいお姿のものはない、言い伝えとして、広田城の戦の時、城内から脱した若い母と乳呑児が敵に発見され、母子共に命を奪われ、戦いが終り、土地の人が不憫に思い厚く葬り手ごろの石を置き花や香え供養したといわれている。何時の頃からか夜眠眠らずに泣く子の為の祈願所になり、その祈願や願成就の布が堂内に飾られてある。
無念の死をとげた母と子の墓碑であろうと思われる二基の自然石には、新しい「腹当て」や「よだれかけ」が何時もかけられていて、今日でもその前にはみずみずしい供花は絶えることがない。
御堂の地主である広田町在住の長島勇氏によると、定まったおまつりの日はないということだが、腹当ての下には「妙善禅尼」の名がかすかに見えている。
江上町有福の安産の観音様と広田のなきびす様は、この地方での子育ての仏様として民間信仰の双璧であるが、因みに早岐広田あたりでは、だらだらしなく際限りなく泣くのを「なきびす」といい、嬰児のことを「いが」と呼んでいる。
一部早岐郷土史概説抜粋