住吉神社の裏手海岸に、海抜二十五米位の小高い丘がある。面積は五反七畝歩(旧台帳)である、天保四年(一六四七)藩作成の地図には島となっているが、元禄十二年(一六九九)の図では陸続きとなっている。これは、江川尻、後釜新田、切渕一帯の干拓工事に依るものであろう。此の地には古来三島様を祠り、豊漁、海難、安産の守護神として住民の崇敬が厚く、神威の厳さに崇敬されていた。
経筒と胡洲鏡の発見
昭和三十六年十一月二十一日、広田町の中学生、松村正光外三名が三島北側土取場跡から経筒とその中にあった胡洲鏡を発見、住吉神社に届けていたが、その後町内有志はその出土品は三島山から出たので、仮名堂のそばに埋めた。その旨を川島市議が辻市長に伝えたところ、昭和三十八年五月八日、市の調査により、滑石製経筒と胡洲鏡である事が判明した。鏡の裏には、「胡洲左十真煉銅無比照子」、と鋳出名があり、調査により古代のものである事が判ったので、市文化館に納入した。出土品発見場所から更に景徳鎮産の青白磁小壷三筒を発見した。更に広田工業団地造成のため、三島山東方の道路工事中、墓片らしい物を発見、全山を調査したところ、石板で囲った土盛の古墳十二基を発見した。古老の話によると三島山は、元は参道左側に藁葺平家の御堂があり、その中に神殿があり、供物として宝物があったが御堂は浮浪者の住み着くところとなり、地域住民はその対策を相談していたところ、鉄道工事に依る採土保償金が支給される事になり、その補償金で遷宮する事となった。山の頂上に石堂の御堂を作り、明治二十七年に遷座し、供物を堂下に埋めたとの事、出土品経筒はその時埋められたものと思われる。明治初期「廃仏段釈」により神社に登録されたものである。
「肥前国風土記と三島山古墳の考察」
肥前国風土記に記述されている速来津媛と弟の健村三間が神代直に降服し、白球三個を捧げたとあるが、出土品古墳の出現に依り速来津媛と関連があると思われる。祭神は女神といわれ、相撲を好み、男達を集めて相撲を行い興にしていた。相撲場の箇所が三島山に存在する。数多くの遺物が発見され、何れも中国長江附近産のものである。墓地も二十一基確認されているが、石板に囲まれ土盛中国様式である。此の地方には多くの先住民、又は、流民が長い間、多数生活していた。三島は太古から天領として聖地化視されている。
地名に「健村の里」「石嶺」「川岸村」等があり、他説の様に遠隔地でなく、小森川畔の「川岸村」、石嶺は広田城とも思われ、鶴ヶ丘付近ではなかろうか、此の地からは三島山は丁度西方に当り、仏教の基地と考えられる。
悠々と流れる早岐瀬戸と、それに連なるかつての港町を思わせる古風な早岐の家並を見ていると、経塚経筒湖洲鏡をめぐってのさまざまな歴史的想念が果てもなく浮かんでくる。
早岐郷土史概説 地元民の記録