崎岡町の岡の谷と千田の中間、旧崎岡里道の傍にあったが、二〇五号道路工事に当って、千田側に寄せて建て直された。母乳の少ない母親、夜泣きする乳児のために、祈願を叶える仏だといわれ、白い米汁をかけられていた事があったが、何時頃、誰がいったか不明である。しかし、実は平戸松浦藩主が、村上水軍船で、旧広田村の年貢米を積みにくる時、その船を繋ぐ石だったのである。高さ一米四○センチメートル、又、岡の谷千田、石浜の平担地は全部海だったと記されている。
先祖が残してくれた記録の通り、昭和六十一年頃、工事の為、地下二メートル余り掘ったところで、ガタの砂地が崩れ落ち工事が出来なく中止したことがある。歴史は此の上もない遺産である。
崎岡より、崎陽路(岡の谷の下請)を通り、中田、千田岳、小瀬岳と浦川内の里の年貢米を運んでいたそうである。その年貢米の取り立て役をしていたのが、浦川内免の小崎、染川両氏だったそうである。その船の積載量は不明である。
広田小学校創立百周年記念誌抜粋