小森川を重尾方面に向って渡り、しばらく歩くと広田町の左側鶴ケ丘、右側花立の道にさしかかる。そこより左側鶴ケ丘の方へ、車が入らない程の小さな道を谷沿いに登って行くと、この谷がいわゆる「納屋の谷」で、その谷のつまる辺りの急斜面に上の窯、下の窯として、佐世保市の史蹟の標識が立てられている。
焚口は北を向き、自然の北風を送風機替わりにしたことが偲ばれ、赤茶色に溶けかかった焚口がきれいに残っている。
広田の窯は平戸系に属し、巨関後の今村次平衛親子が平戸に住んだ後、陶土に適した良質の土を求め、日宇、東の浦、猫山、権常等、三川内、江上と探した折、広田で試焼したとの説もあるが、この上下二つの窯は後年のものであろうといわれている。
このように窯のはじまりははっきりと判らないが、正徳二年(一七一二年)には、天草より早岐へ陶石を送付した後、三川内に搬入したとの記録がある。有田泉山に陶石が発見される一〇七年前のことであるが、この頃からすでに窯が出来る状況は整ってはいる。広田窯は鶴ケ丘在住の故丸田宗吉氏の所有地にあるが、丸田氏の先祖は熊本より来たといわれ、宗吉氏の父比佐太郎氏は国鉄の機関区で炭水世話係を勤め、大正一二年に五九歳で死去されているので、祖父の茂助氏までが作陶されていたと見られる。「茂助明治十年製」と記された皿が現在しているが、茂助氏は昭和二年八十五歳で死去されているので五十歳の時の作になる。その後どの位焼かれたかは不明だが、近くの物原からは山水や草や唐子などの絵の破片が出土している。
丸田家系図
丸田熊七-茂助-比佐太郎-宗吉-佐勝-政二・比佐勝
宗吉氏の二男の比佐勝氏によれば廃窯の原因として絵付けの洗練不足、窯焼きに必要な沢山の薪と陶土の調達の困難、次第に大量生産化していく陶磁器に圧迫されたなどが想像されるとのことである。尚この窯より西側へ約五○○米ほどの広田自治会館の後の畑に広田新窯の跡が終戦頃まで残っていた。新窯といわれているように、広田上下窯より新しいのは近くの家に残っている窯跡の壁石などの溶け工合から想像出来る。
この新窯は木村鷹雄氏(上小森在住)の所有地であったが、鷹雄氏の先祖はやきものの生産に従事したことはなく農家であったとのことであり、その前の所有者に関りがあるかもしれない。今は永岩実氏の住宅になっており、誰が焼いたのか、いつ開窯されたのか皆目判らない。
丸田比佐勝氏記