昔々、今から数百年前、広田村のお年寄たちに親しまれた瑞光寺という名の仏教のお寺があった。
ところが肥前平戸に伝導されたキリスト教はまたたく間に広まり、長崎県の歴史の本によれば、永録、天正のころ広田の瑞光寺はキリスト教徒により焼き払われてしまったそうである。でも時がたつとともに熱心な仏教徒の信者たちがお寺の再興を念願していろいろ策を練ったにちがいない。信者の願が仏様に通じたか、平戸藩の牧山元朝延林という人が私財を投げ出し、正徳二年 (一七一ニ)瑞光寺を再建して開基となられた。
お寺を建てた人を「開基」、初代の住職を「開山」と呼ぶが、開山黙堂上人の碑が今の観音堂境内に建てられている。寺の名前を曹洞宗「一禅院・聖林山・瑞光寺」と呼び、朝な夕なに瑞光寺の鐘の音が広田の村に響いたことであろう。
一度あること二度、三度、広田の人々の安心は長く続かなかった。徳川幕府の大政奉還により神仏混合からまたまた廃仏毀釈にあい、瑞光寺はその姿を消してしまった。折も折、疫病のコレラの流行で、その死者の数は六千八百十七名にものぼったと広島大学名誉教授後藤陽一氏の日本史に明記してある。古老たちの話によれば、コレラの流行はきっと瑞光寺がこわされたからに違いない。当時としてはコレラの蔓延にはさぞ恐れおののいたにちがいない。さっそく広田村宮崎免の有志たちにより、瑞光寺跡に「明治十年、間口三間、奥行二間、木造平屋瓦葺」(観音堂)ヲ建テ木像座像二尺ノ 「聖観世音菩薩」ヲ本尊トシテ安置シテ朝夕参詣セルモノナリ」と記録してある。
「無住寺はまかりならぬ」との通達で観音堂は昭和十五年三月四日付県庁宛の登記記入願により早岐大念寺の境外仏堂と登記されているようである。
老朽により、かねて懸案であった観世音お堂の再建計画により広田五自治会会長を中心として町内有志と共にその建設費の浄財を各町より拠出し、平成九年三月十八日地元建設業者によって建立された。
広田五自治会(上宮崎・下宮崎・鶴ケ丘・花立・小森)等しく護持永代に及び継承する。
地元民記録