早岐と広田の境を流れる小森川の河口を通ること二分、右手に五〇メートル程の壁を立てたような断崖がある。そのうえが広田城の跡である。天正十四年(一五八六)三川内薬王寺上の井手平城を陥れた大村・有馬・波多の連合軍が勝の乗じて押し寄せて来て、平戸松浦との激しい戦をした山城で、当時は早岐水道は真下の崖に迫り、大村に対しにらみをきかしていた。
今は大手門があったという小森川を渡ってすぐ左から上ると、谷を挟んで本丸と二の丸跡に雑木が生い茂った中にその形骸が見られる。
本丸は二重の空壕に囲まれて、中央には祠が建てられている。付近にはひょうたん形の堀割もあり、麗の四方には納屋谷、堂山(城主佐々加雲利得居士の墓)、大手堤、不動の渡し、庄屋屋敷跡など旧跡を下って屋根を一つ横切ると、堤のある小さな谷に出る。
ここは大手と呼ばれるところで、広田城跡の正面入口である。段々畑の間の畔道を広田城の本丸跡へと登っていく。丘の頂に着き後お振り返ると眼下に早岐・広田の街並みが見渡せる。本丸跡はつたの絡まる杉木立で、足を踏み入れるのもためらわれる薄暗さである。堀切、堅掘、空掘、土塁などがあちこちに確認できる。途中に見つけた太い竹の群生が印象的で、恐らく矢竹として使用されたと思われる。
北は小森川が自然の堀の役目をし、東は屋根の堀切で侵入を防ぎ、南は断崖。この城を落とすのは至難の技であったと考えられる。
早岐郷土史説概説より